終章『離島記者』報道砂漠で闘う市民メディアの挑戦/武田 剛

離島の住民になって取材するのは、実はこれが2度目だ。
2003年末から約1年間、南極観測隊の同行取材で暮らした昭和基地は、南極大陸の沖合に浮かぶ東オングル島にある。皇居が二つ入るほどの小さな島で、40人の隊員と力を合わせて、厳しい越冬生活を乗り切った。
海氷の上を一列で歩くペンギンたち、夜空を舞うように彩るオーロラ、そして、厚さ3000メートルもの氷に覆われた大陸……。
極地の大自然にレンズを向けた日々は、とても貴重な経験だった。何を取材しても目の前の光景に魅了され、日本に送った写真と記事には、南極の自然美があふれていた。

だが1本だけ、私は「汚された南極」を伝えるために記事を書くことを迫られた。
1957年に日本の南極観測が始まってから、半世紀近くの間に溜まった大量のごみが昭和基地に残されていたからだ。それも、人目につかないように、わざわざ地中に埋められていたのである。
ことの発端は、海上保安庁から派遣された隊員の「内部告発」だった。
その隊員の案内で基地の中心から外れた斜面を覗き込むと、雪が解けた地面から錆びたドラム缶や廃材などが転がり、海に落ちてぷかぷか浮いていた。試しに急斜面を下りていくと、なんと、トヨタの大型四輪駆動車「ランドクルーザー」が土の中から顔を出していた。さらに周辺の土をほじくってみると、ヤマハのスノーモービル、ソファ、食器棚、長靴などがたくさん埋まっているではないか。
私を廃棄現場に連れていってくれた隊員は、海保の任務でごみの海洋投棄も取り締まっており、怒り心頭で言った。
「外から見えないように盛り土がしてあって、日本なら悪質な法律違反だよ。雪が多いときは気づかなかったけど、こんなに汚い基地だとは思わなかった」
それから私は、大きな難題を背負うことになった。こんな悪質な廃棄物の埋設処分について記事にしたら、観測隊を派遣している国立極地研究所が憤慨するに決まっていた。寝食を共にしてきた多くの隊員も「裏切られた」と怒って、もう二度と口をきいてくれなくなるかもしれなかった。
そう思うと、記事を書くのが怖くなった。でも、見て見ぬふりをしたら、大量のごみはそのまま放置されることになり、記者として後悔するのもわかっていた。私は悩みに悩んだ末、決断した。
帰国前、昭和基地を離れる直前に報道する。
そして、私は2005年1月24日、朝日新聞の総合面で<南極ごみ 難問山積み><観測隊、拡張優先 進まぬ撤去>と報道。無残に廃棄された雪上車が散らばる写真も掲載して、ごみ処理が進まない観測隊の窮状を伝えた。

案の定、この日を境に観測隊の幹部らは冷たくなった。日本からファクスで届いた記事を手にした隊長は私の部屋を訪れ、強く抗議をしてきた。私と会っても目をそらして無視する隊員もいて、わずか40人の狭い社会で取材することの怖さを痛感した。
約50日にわたる帰りの航海は、まるで「針のむしろ」のようだった。南極観測船を運航する海上自衛隊の幹部らも記事を読んでいて、私は冷ややかな視線を浴び続けた。豪州のシドニーで下船する際には、見送る幹部の一人から「たまには観測隊のいい記事を書いてくださいね」と嫌みを言われ、別れの握手を拒まれた。
南極の魅力を伝える報道をあれだけ数多くしたのに、わずか1本の記事で、それまで築いてきた人間関係が崩れていく……。私は失意のまま、約500日ぶりに帰国した。
ところがその後、私の記事が思わぬ効果を生んだ。報道がきっかけとなり、観測隊が昭和基地でごみの撤去作業を本格的に開始。国が基地の環境対策に多額の予算を計上し、ごみの運搬では海上自衛隊から全面協力を得られるようになったのだ。
帰国から3年半後、久しぶりに国立極地研究所を訪ねると、廃棄物担当の職員が「今、昭和基地はとてもきれいになりましたよ」と言って、錆びた雪上車などが消えた基地の写真を見せてくれた。同じ問題を抱える各国の基地もごみの撤去を進めており、「あの記事がなかったら、日本だけが出遅れていました」と感謝までされた。

現在の昭和基地は美しくなり、私が目にしたごみの埋め立て地は姿を消したが、すべてはたった1本の記事がきっかけだった。そう思うと、とても怖かったけれど、あのとき意を決して報道した判断は間違っていなかったと、今でも信じている。
そんな南極での経験があったため、屋久島で町の不正や不祥事を取材することになっても、全く迷いはなかった。
ただ、昭和基地がある東オングル島と違うのは、私は家族と一緒に屋久島で暮らし、この島に住み続けるということだ。島内では大きな権力をもつ町長らに嫌われれば、住みづらくなるのは目に見えている。取材をすればするほど嫌われ者になり、もし私や妻が役場のアルバイト募集に手を挙げても、絶対に雇ってはくれないだろう。
だが、そんな状況でも町政の監視を続けるのは、2018年に上梓した児童書『もうひとつの屋久島から 世界遺産の森が伝えたいこと』(フレーベル館)で、こんな一文を書いたからだ。
<屋久島の豊かな森は、守るべくして、守られた――。
そう信じている観光客は多いと思う。ぼくも初めはそうだったけれど、取材をしてみて、じつはまったく逆だということがわかった。日本初の世界自然遺産の森は、たった数人ではじまった伐採の反対運動によって、奇跡的に守られた森なのである>
1970年代、屋久島の原生林は大伐採によって、そのほとんどが姿を消す寸前だった。だが、当時は林業が島の主力産業で、森を切って生計を立てる多くの住民は、国が続ける国有林の乱伐に異議を唱えることができなかった。
それでも数人の青年たちは、樹齢数千年の屋久杉は「日本の宝」だと訴え、国に原生林伐採の中止を求め続けた。伐採の是非を問う住民討論会、次々と倒される巨木を追った告発の記録映画、国会議員らを招いた東京での反対集会……。
その活動は全国に報道され、国は1982年、ついに伐採の中止に追い込まれた。そして1993年、反対運動で守られた原生林はユネスコの世界自然遺産に登録される。
あのとき、数人の青年が声を上げていなければ、今、屋久島は「世界の宝」になっていなかったということである。
拙著では読者の子どもたちに向けて、こんな結びの言葉も書いた。
<世界自然遺産の森が守られたのは、あのとき、勇気を出して、「原生林の伐採に反対」と声を上げたからだ。
屋久島の森の歴史は、「あのとき、もし、やっていれば……」と、後になって言ってはならないという教訓を、ぼくに与えてくれたと思っている>
目の前にある問題に対し、見て見ぬふりをしない――。
そうは言っても、小さな離島で調査報道を続けるのは、とてもしんどいことだ。町側の圧力で、私はマスコミの仕事を失った。妻は「半額」シールが貼られた食材を買って節約し、大好きな本が買えない娘は、船便で鹿児島県立図書館から書籍を取り寄せている。
だが、それでも報道を続けられるのは、鹿島幹男さんら島民記者の同志が一緒にいてくれるからだ。私がひとりで取材をしていたら、完全な孤立状態に陥って、とても心がもたなかっただろう。
私たちの報道を受けて、住民訴訟で町と闘う有志がいるのも心の支えだ。島外の団体から賞を授けられたり、ジャーナリズム研究の専門家から学会に招かれたりするのも、とても励みになっている。
今、新聞各社が急速に衰退するなかで、全国各地ではマスコミによる監視の目が届かない「報道砂漠」が広がっている。ここ屋久島でも、地元紙の南日本新聞は常駐記者を撤退させており、町役場を間近で取材する新聞記者はいなくなってしまった。
もう、マスコミには頼れない。
そんな不安に追い詰められたなかで生まれたのが、私たちの市民メディア「屋久島ポスト」である。自分たちの町の問題は、自分たちで取材して報道するしかないということだが、こういった地域社会は、これからどんどん広がっていくだろう。
そして、それが特に顕著なのは都市部から遠く離れた地方の小さな町であり、なかでも最も深刻なのは、本土から隔絶された離島だ。屋久島町を取材しただけでも、これほど多くの不正や不祥事が明らかになった。これは他の離島でも、あり得ることだと思っている。
南極に続いて、屋久島でも「離島記者」になった私は、こう感じるようになった。
小さな社会であればあるほど、そこには、記者にとっての「原点」がある。
(おわり)
※本文に登場する人物の肩書と年齢は当時のものです。
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